藤原道長と言えば、平安時代を代表する権力者です。
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世の中は広いもので、長い歴史の中には同姓同名の藤原道長がいました。果たしてこっちの藤原道長はどんな人物で、どんな生涯を送ったのでしょうか。
ほとんど謎に包まれた人物
二人目の藤原道長は生没年不詳。父親の藤原真友(まとも)が天平14年(742年)生~延暦16年(797年)没なので、生年は天平宝字6年(762年)~延暦元年(782年)あたりと考えられるでしょう。
そして仮に約50年間生きたものと考えると、没年は弘仁3年(812年)~天長9年(832年)あたりとするのが自然です。
【藤原氏・南家乙麻呂流 略系図】
……中臣鎌足-藤原不比等-藤原武智麻呂-藤原乙麻呂-藤原是公-藤原真友―藤原道長……
母親は正室である藤原蔵下麻呂(くらじまろ)の娘、兄弟には藤原朝嗣(ともつぐ)、女子2名(藤原弟河室、藤原文山室)がいました。
道長本人について詳しい記録は残っておらず、親族の記録から断片的な情報を掻き集めて、その存在が確認される状態です。
例えばこちらは、道長の孫娘である重子内親王(じゅうしないしんのう)が薨去された時の記事。
……二日辛巳。無品重子内親王薨。……(中略)……内親王者。仁明天皇之皇女。母従五位下藤原朝臣道長之女也。……
※『日本三大実録』巻十一 貞観7年(865年)7月2日条
【意訳】貞観7年(865年)7月2日、無品の重子内親王が薨去された。内親王は仁明天皇の皇女で、母親は藤原道長(従五位下)の娘である。
妻は不詳。一男一女(藤原諸氏、仁明天皇の宮人となった藤原小童子)をさずかりました。
宮人(くにん)とはいわゆる女官で、かつて内裏には女性官吏が多かったことから宮人≒女官だったのが、次第に男性官吏も増えて女官と呼ばれるようになります。
道長が従五位下・越中権守となれたのは、娘が仁明天皇に気に入られたお陰だったのかも知れませんね。