寛永14年(1637)から寛永15年(1638)の間に勃発したキリスト教徒や農民、浪人たちが起こした大規模な一揆・島原の乱。
集団処刑、熱湯漬け拷問…そして島原の乱、勃発。日本におけるキリシタン弾圧の歴史
日本で初めてのキリシタン弾圧「日本二十六聖人殉教事件」[caption id="attachment_73761" align="aligncenter" width="660"] 日本二十六聖人…
一揆勢は戦闘員と非戦闘員含めおおよそ37,000人で、原城にて籠城戦を仕掛けますが、全滅という結果で島原の乱は収束しました。
しかし、その一揆の中で唯一生き残った者がいました。その人物は山田右衛門作(えもさく)。後に江戸の岡っ引きになった人物です。
今回は山田右衛門作のみが生き残れた理由や生き残った後の生涯について紹介します。
大名のお抱え南蛮絵師だった
幼い時にポルトガル人に西洋画法を習っていたことがきっかけで、右衛門作は有馬直純や松倉重政、松倉勝家に南蛮絵師(西洋画家)として仕えます。
そして、島原の乱が勃発すると一揆勢に原城に立て籠ります。
実際のところ、右衛門作はキリシタンではありませんでした。しかし、家族が人質に取られてしまったため、仕方なく一揆勢に加担したとのことです。
右衛門作は一揆勢の中では天草四郎に次ぐ副大将であり2,000人を率いて本丸の守備を担当しました。
また、南蛮絵師として『天草四郎陣中旗』を描いたのも右衛門作であると言われています。