歴史好きの方はもちろん、それほどでもないという方であっても、伊達政宗(だてまさむね)という名前はほとんどの方が知っているのではないでしょうか?「独眼竜」のあだ名でも知られており、馬に乗った「伊達政宗公騎馬像」の凛々しい姿も有名ですよね。
そんな伊達政宗ですが、毒殺未遂事件があったのではないかと語られているのを知っていますか?
今回の記事では、その事件の詳細と、その真相についてご紹介していきたいと思います。
伊達政宗毒殺未遂事件とは?
伊達政宗毒殺未遂事件は、1590年(天正18年)4月5日に発生しました(「貞山公治家記録(ていざんこうちけきろく)」による)。
小田原攻め(豊臣による北条氏攻め)の参陣に向けて伊達政宗は母である「義姫(よしひめ)」から宴に招かれていました。しかし、その場で伊達政宗は激しい腹痛に襲われます。食べたものを吐き出し、解毒剤を飲んだため、彼はなんとか一命をとりとめました。
これが、伊達政宗の実母による伊達政宗毒殺未遂事件と考えられています。
伊達政宗毒殺未遂事件の背景とその後
実母による息子の毒殺未遂事件と聞くと穏やかではありませんが、これにはどのような背景があったのでしょうか?
この事件は義姫の単独計画ではなく、彼女の兄である最上義光にそそのかされたものだと考えられていました。
最上義光は義姫が溺愛していた伊達政宗の弟・小次郎を跡継ぎにすれば豊臣秀吉の怒り(事件の前年に伊達政宗は会津を平定しており、それが秀吉の怒りの原因に)も収まるだろうと彼女に言ったと言われています。
事件後、伊達政宗は弟・小次郎と小次郎の傅役を手討ちにします。母・義姫は実家である最上家へ逃げ帰ったと言われています。