前編では、鎌倉時代から江戸時代まで700年間に渡って南九州を統治してきた島津家のなかでも、歴代最恐の暴君として名高い「島津忠恒(家久)」が島津家当主になるまでのエピソードを紹介しました。
島津家 歴代最恐の暴君!?外道伝説ばかり語られる武将・島津家久の人生がやはり色々とヤバかった【前編】
後編では、島津家の繁栄に尽力しながらも悪名を轟かせ、自らの行動がキッカケでお家存亡の危機を招くことになる島津忠恒のエピソードを紹介します。
裏切り者は成敗
豊臣秀吉の没後、中止となった慶長の役から日本に戻ってきた島津忠恒は、正式に島津家の当主となりました。当主になってからは、心を入れ替えたかのように蹴鞠や酒、女に溺れる生活から脱却。一方で、自身を裏切るような行動をとった人物に対しては容赦のない報復を行うようになります。
ターゲットととなったのが島津家の筆頭家老・伊集院忠棟です。当時、豊臣家の交渉役を担っていた人物で、島津家の家臣であったにもかかわらず、豊臣秀吉の意向を鵜呑みにするイエスマンでした。さらにこのとき、主君であるはずの忠恒の暗殺や島津家からの独立を企んでいたとの噂もあります。
そんな裏切り者に勘付いていた忠恒は、バックにいた豊臣秀吉が亡くなった直後に伊集院忠棟の斬首を決行。このことがキッカケで、島津家は前代未聞の内乱へと発展していくのです。
荒れ狂う島津家
伊集院忠棟の息子・忠真は父の斬首に激怒し、忠恒に対して自身の居城で挙兵します。忠恒は約3万の兵を率いて鎮圧に乗り出しますが、忠真の居城は12の外城に守られた鉄壁の要塞。城を落とすことはできませんでした。
折り合いがつかなくなった双方は、譲れないプライドをかけて消耗戦へと突入してしまいます。困り果てた忠恒は徳川家康に調停を頼み、「降伏すれば許す」という条件で反乱の鎮圧に成功しました。