鎌倉時代から江戸時代まで700年間に渡って南九州を統治してきた島津家のなかでも、歴代最恐の暴君として名高い「島津忠恒(家久)」はご存知でしょうか。
すぐれた内政手腕で島津家を滅亡の危機から立て直した功労者ですが、騙し討ちや妻への扱いがひどすぎるとして功績よりも悪行について語られることが多い不遇な人物です。
忠恒はのちに家久と名乗っていますが、叔父にも家久がいたことから、しばしば悪い方の家久を略称して「島津悪久」とよばれることもあるのだとか。
今回は、そんな島津忠恒が当主になるまでのエピソードを紹介します。
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子供の頃からヤンチャ
戦国時代末期、島津忠恒は島津家の3男として誕生。父親は、常人とはかけ離れた強さを誇り、鬼島津の異名を持つ島津義弘です。
2人いた兄のうち長男は幼くして亡くなってしまいますが、次男・久保が優秀だったこともあり、忠恒は後継者として厳しく育てられることもなくのびのびと成長しました。そのためか、蹴鞠や酒、女に溺れて遊び三昧の生活を送っていたといいます。
それに引き換え立派に成長した兄・久保は、島津家の当主・義久(叔父)の娘である亀寿と1589年に結婚。義久には娘しかいなかったこともあり、久保が婿入りをして島津家の後継者に選ばれました。
予想外のおこぼれ
1592年に勃発した戦国史上最大の海戦がキッカケとなり、忠恒の人生は大きく変わりはじめます。ことの発端は、豊臣秀吉率いる朝鮮出兵の1回目「文禄の役」へ出陣したときのことでした。
出陣していた兄・久保が、朝鮮での戦闘中に病死。当主不在となった島津家が混乱状態に陥るなか、豊臣秀吉が島津家の後継者に忠恒を猛プッシュ。事実上の命令によって、忠恒が島津家当主に選ばれたのです。
しかし島津家の当主になるには、前島津家当主・義久の血を継ぐ必要があったため、兄の元嫁である亀寿と結婚。ただ、女遊びが大好きだった忠恒は亀寿と折り合いがつかず夫婦生活は最悪で、子供にも恵まれませんでした。
そのような状況下においても、忠恒が入婿であったため、側室を設けることは許されず、後継者がいない状態となってしまったのです。