1690年のこと、一隻の船が二百日近く海上を漂流していた。大阪の淡路屋又兵衛の持ち船でした。
この船の乗員16人。江戸への航行中に暴風に遭ったもので、長い漂流の末、船はカムチャッカ半島の南岸に漂流しました。
それまで乗組員は、辛うじて命を繋いでいましたが、ロシアに拿捕されるや15人が殺されてしまいます。ただ一人、淡路屋の番頭だった伝兵衛(でんべい)だけはクリール人に捕らえられ、オパラ川の河口に一年余り滞在し、その後、ロシアから来たシベリア東北部の踏査探検隊に助けられました。
伝兵衛は、探検隊にヤクーツクまで連れて行かれ、1701年に、モスクワへ送致されます。そして、翌年にはロシア皇帝に謁見することとなります。
当時のロシア皇帝はピョートル大帝(在位1682~1725)。このピョートルは、数あるロシア皇帝の中でも突出した存在でした。
少年時代は政敵を逃れて郊外の村に隠れたり、暗殺されかかったりしましたが、周辺の外国人集落で技師たちに砲術や造船術を学び、実権を握ると、黒海への出口を獲得すべくトルコと戦争、バルト海進出を目指してスウェーデンと戦争、など戦争に明け暮れることになります。
しかも、その戦争の合間をぬって、ヨーロッパ諸国に先進技術や制度を学ぶべく自ら使節団に加わり、国内の政治改革も急進させました。
彼の統治によって、ロシアは強大な近代国家に生まれ変わったのでした。この八面六臂の皇帝が、日本に興味を持ち、日本語学校の設立を計画していたところに、伝兵衛の存在を知ったのです。