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日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【中編】
前回の記事[insert_post id=209114]日露戦争勃発!【前編】では、桂太郎による第一次桂内閣が成立した流れを説明しました。そんな桂内閣に、日露戦争という最大の試練が科せられ…
「内閣の毒殺」と第三次桂内閣の成立
政友会による第二次西園寺内閣は「二個師団増設問題」と呼ばれる問題で退陣を余儀なくされました。
陸軍が、満州の権益確保と朝鮮の治安維持のために二個師団増設を要望したのですが、財政上の理由から非承認としたところ、陸相が辞表を出したのです。
当時のルールでは、内閣の方針と大臣の方針が不一致となり、かわりの大臣が見つからない場合は総辞職するしかありませんでした。こうしたこともあって、陸相、つまり陸軍との不和が仇となり、西園寺内閣は総辞職に追い込まれます。
これは陸軍による内閣の「毒殺」とされ、陸軍や、それを率いていた山縣有朋はマスコミから非難されました。元老会議では西園寺が留任を説得されますが、さすがの西園寺も元老たちに不信感を持っておりこれを拒否します。
誰が首相になっても、その人が非難を浴びるのは明らかで、誰もが首相就任を拒みました。また政党嫌いの山縣有朋は政党政治家の擁立を許さず、やむを得ず桂太郎が再び内閣を組むことになりました。
この時、彼が首相になることを引き受けたのは、高齢の山縣有朋に後輩として迷惑はかけられない、と考えたからだと言われています。そして桂はこの時の無理が遠因となって命を落とすことになりました。