古来、武士を弓馬と呼ぶとおり、弓射と馬術(合わせて騎射)は武士にとって必須の技術だったと言います。
かつては誰もが騎射の腕を競い合い、鍛錬の成果を神前に奉納するのが流鏑馬神事でした。
その射手に選抜されるのは弓射の腕前を認められたことを意味しており、大変な栄誉です。
しかし同時に失敗したら大恥をかいてしまうリスクも孕んでおり、喜んでばかりもいられません。そこで選抜された者たちは騎射の猛特訓に励んだものと思われます。
今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、トキューサこと北条時房(当時は北条時連)のエピソードを紹介。果たして彼はどんな特訓を積んだのでしょうか。
三人の師範たち
時は建久4年(1193年)8月9日、源頼朝公は由比ヶ浜へやってきました。
一週間後(8月16日)に迫った流鏑馬神事の出場選手たちを連れており、それぞれ自主練をさせたと言います。
「ん、五郎(時連)よ。いかがした」
時連は緊張のせいか固くなっており、上手く弓が引けません。
「はい。それがし、今回が初出場でして……」
近ごろ騎射が上達してきたから抜擢したというのに、緊張していてはいつもの実力が発揮できなくなってしまいます。
「左様か、まぁ無理もないのぅ。しかし神事なれば首尾よく務めて貰わねば困る」
「はい。分かってはいるのですが……」
「それではよい師範を呼ぼう。おい、下河辺の」
「は。如何用で」
呼ばれて来たのは下河辺行平。御家人たちの間では弓馬にすぐれ、また鷹揚な人徳で物を教えるのも得意そうです。