明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【前編】~「徴兵制」施行まで~

山県有朋はなぜ維新志士となったか

明治・大正期を代表する政治家であり、「超」がつく大物でもある山県有朋(やまがた・ありとも)。彼は二度内閣総理大臣を務めた偉人でもあるのですが、長らく歴史上で「悪役」のイメージを負わされ続けてきました。

しかし、そうしたイメージはおいておいて、今その人生を冷静な視点で見ていくと、山県という人は日本の近代的軍隊・近代官僚制・そして地方制度など、近代日本の基礎となる部分を確立した超一流の政治家だったことが分かります。

まず、山形有朋という人物を説明する上で欠かせないのが「身分」です。武士で石高が少ない者を下級武士などと言ったりしますが、実は下級武士にもさらに下がいます。まず「足軽」で、そしてそのさらに下が「中間」と呼ばれる武家屋敷の使用人です。こうした人も一応、分類上は武士ということになります。実は

山県有朋は、このような「中間」層の出身でした。厳密に言えば蔵元付中間組という層です。後に原敬が、山県のことを「あいつは足軽だから」と揶揄したという逸話がありますが(ちなみに原敬は名門出身)、本当は山県は足軽以下の身分だったのです。

こんなエピソードもあります。彼が少年の頃、雨の中で上士とすれ違った際、上司の袴に泥水が撥ねたため泥の中で手をついて土下座をさせられたというのです。これが実話なのかどうかは不明ですが、いずれにせよ、武士の中でも最下層に近い身分だったことが、彼を倒幕と明治維新に駆り立てた原因の一つになったのは間違いないでしょう。

2ページ目 松下村塾から奇兵隊へ

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