栄枯盛衰は世の習い、永い歳月の末(あるいはほんの短期間で)かつての主従関係が逆転してしまうことは珍しくありません。
戦国時代における織田家と羽柴(豊臣)家もその例にもれず、かつて父(織田信長)の草履取りだった男(羽柴秀吉)に隷従することを余儀なくされてしまいました。
今回は信長が遺した娘たちの中から、三ノ丸殿(さんのまるどの)と呼ばれた女性を紹介。果たして彼女は、どのような運命をたどるのでしょうか。
他のみんなは「室」なのに……12人姉妹で1人だけ「妾」な九女
まずは信長の娘たちについて、江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』を見てみましょう。
女子 母は信忠におなじ。岡崎三郎信康君の室。
女子 蒲生飛騨守氏郷が室。
女子 筒井伊賀守定次が室。
女子 前田肥前守利長が室。
女子 丹羽五郎左衛門長重が室。
女子 二條関白昭實公の室。
女子 萬里小路大納言充房が室。
女子 水野東市正忠胤が室、のち佐治與九郎一成に嫁す。
女子 豊臣太閤秀吉の妾、三丸と称す。
女子 中川右衛門大夫秀政が室。
女子 徳大寺中納言實冬が室。
女子 實は苗木勘太郎某が女、信長に養はれて武田四郎勝頼が室となる。
※『寛政重脩諸家譜』巻第四百八十八 平氏(清盛流)織田
ざっと読んでみて気づいたのですが、九番目の娘だけ豊臣太閤秀吉の「妾」となっていました。
妾(めかけ)とは、正式な妻である室(しつ。正室や側室など)や妻(身分が低い者の妻)とは異なり、一段低い扱いとなります。現代で言うなら愛人枠、よくて内縁関係でしょうか。
それにしても、他の8人はみんな「室」として遇されているにも関わらず、この三丸(三ノ丸殿)だけ「妾」扱いされているのは不憫ですね。
これは秀吉が「旧主の娘を妾にしてやったぞ!わしはそれだけ偉くなったんじゃ!」と子供じみたアピールをしたかったのでしょうか。
あるいは秀吉は歓迎したけど、織田家側がそれを嫌って「あの娘は猿の妾にくれてやりました」と切り捨てたかったのかも知れません。
実際のところは分かりませんが、大事な姫を成り上がり者の妾に差し出さねばならなかった織田家側の思いは察するに余りあります。
それでは、そんな三ノ丸殿の生涯をたどってみましょう。