武田に見切りをつけた武将!信玄と勝頼を支えた外交官・穴山信君の生涯を紹介【どうする家康】

拾丸

武田信玄・勝頼親子に仕え、最終的に裏切った武将・穴山信君(あなやま-のぶただ)。『どうする家康』では田辺誠一さんが演じ、武田勝頼(演:眞栄田郷敦さん)の言動に限界を感じている様子が見て取れるかと思います。そんな信君は史実ではどのような人生を歩んだのでしょうか。

今回は、穴山信君の武田時代から裏切り、その後の悲運な最期までを紹介します。

御一門衆の穴山氏

信君のいる穴山氏は、武田氏の7代目当主・武田信武の子である武田義武が、巨摩郡逸見郡穴山(現在の山梨県韮崎市穴山町)に住み、穴山姓を名乗ったことが始まりです。

しかし、在地には穴山氏がおり、義武は養子として穴山氏の当主として据えられたとの説もあります。

そのため、武田姓を称せる御一門衆として、武田宗家を支えました。また、信君と父・穴山信友は信玄と父・武田信虎の娘を正室としていることから、穴山氏は武田宗家との結びつきが特に強かったと考えられます

外交官として活躍

信君は18歳になる永禄元年(1558)に父・信友の出家に伴い、家督を相続しました。初めての戦場での活躍は、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで本陣を守備したことが記録として残っています。

その後は調略や交渉といった外交面での活躍が目立ち、永禄11年(1568)の駿河侵攻においては、今川側の武将たちの調略を担当。今川家の弱体化と武田家への取次を行いました。

信君が今川の調略を任された背景には、信君の祖父・穴山信風(あなやま-のぶかぜ)が今川に仕えていた時期があり、わずかながら繋がりのある今川家の内情を知っていたからと考えられます。

この他にも浅井氏や六角氏、三好氏などに対する交渉でも活躍し、武田の名外交官と言っても相違ない活躍をしました。

2ページ目 武田家に見切りをつけ始める〜裏切りと非運な最期

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