凄いぞ大阪!織田信長・豊臣秀吉ら時の権力者が欲しがった交通の要衝。大阪の歴史的意義【前編(古代~中世)】

高野晃彰

日本における歴史的中心地というと京都や奈良を思い浮かべる方が多いでしょう。確かに京都は街中が古都という雰囲気に溢れ、奈良は貴重な文化財や国宝が多く集まる地です。

しかし、大阪も歴史という点では決して両者に負けていません。古代から近世という長い歴史の中で、大阪は日本一の要地として、多くの権力者が大阪の統治を目指しました。その理由は、海上交通が主流だった時代、大阪は大陸から瀬戸内海を経て運ばれた物資が集まり、そこに人々が集まる要衝であったからです。

【前編】では、そんな大阪の古代・中世における歴史的意義を紹介しましょう。

巨大古墳がパビリオンとして並んだ「古墳時代」

大阪は京都・奈良よりも古い歴史をもっている場所なのです。日本のおける古代文明はユーラシア大陸の中国・朝鮮から主に対馬・壱岐を経由して九州に上陸しました。そうした文明は、九州からは、比較的波が穏やかな内海の瀬戸内海を通って東に伝播していきました。その瀬戸内の海の突き当り・東の端が大阪であったのです。

大阪にはすでに縄文時代から人が住んでいましたし、古墳時代になると、百舌鳥・古市古墳群にみられるような仁徳天皇陵古墳(大山古墳)・履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)などの巨大古墳をはじめ多くの古墳が造られます。

こうした古墳は、大王などを祀る首長墓であるとともに、中国(宋など)からの使節に倭の文化・土木技術を見せつけるためのパビリオンであったともいわれています。

5世紀の倭国王たちは、ヤマト(奈良県)を本拠としつつ、海上交通の要衝であるイズミ・カワチ(大阪府)に難波津を設け、支配拠点・生産拠点を置きました。古墳時代前期の大阪は、西の瀬戸内海、東の河内湖に挟まれるように南から半島が突き出していました。

この半島が後に大阪城が築かれる上町台地となります。ヤマト政権は、ここに大規模倉庫群である法円坂遺跡を設けたのです。

5世紀以降になると、仁徳天皇の治水事業により、河内湖の水域が減少。流入している大和川などが河口に三角州をつくり、湿地となり、大阪は徐々に陸地化が進んでいきました。

その仁徳天皇は、上町台地の高津宮付近に難波高津宮を置き、履中天皇・反正天皇も大阪に宮都を置いたのです。

3ページ目 前期・後期の難波宮が置かれた「飛鳥・奈良時代」

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了