戦国時代には、お田鶴の方や甲斐姫といった女性たちが武器を持って戦ったのはご存知の方も多いでしょう。
城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【上】
しかし、今回ご紹介する妙林尼(みょうりんに)については、ご存知ない方も多いのではないでしょうか?
妙林尼は簡単に言うと、非戦闘員を率いて島津軍と籠城戦を繰り広げた人物。この功績を見ただけで、どのような人物だったのか興味を持った方もいるかと思います。
そこで今回は、妙林尼が戦った籠城戦を詳細に紹介します。
島津軍の豊後侵攻
妙林尼は、生まれも出身地も不明です。しかしながら、夫は大友家家臣の吉岡長増の子である吉岡鑑興と判明しています。天正6年(1578)、その鑑興が耳川の戦いで戦死したことをきっかけに出家し、妙林尼と名乗りました。
その8年後の天正14年(1586)、島津家が九州制覇のため、侵攻を開始。大友家の拠点・豊後国に兵を向けました。
戸次川の戦いで勝利したこともあり、島津家久率いる島津軍は、大友宗麟のいる臼杵城と妙林尼のいる鶴崎城へ侵攻してきました。
城主不在の中戦いを選んだ妙林尼
鶴崎城の城主は、鑑興の孫・吉岡統増でした。しかし、統増は宗麟のいる臼杵城に従軍しており、兵士たちも臼杵城に移していました。
そのため、鶴崎城には妙林尼の他に女、子供と老兵ばかり。3000人で迫ってくる島津軍を前には、降伏は必須でした。
しかし、妙林尼は徹底抗戦を決意。早急に火縄銃の使い方や罠の設置などで鶴崎城の防御を固めました。
その甲斐あってか、島津軍を16回も退ける戦ぶりを見せます。なかなか落とせない鶴崎城を前に、鶴崎城を攻めていた野村文綱は和睦を提案します。妙林尼も和睦を受け入れ、鶴崎城を文綱たち島津軍に明け渡しました。