信長あっての名将
柴田勝家といえば織田家の筆頭家老であり、名将の一人です。
彼は一度は信長の弟・信勝の家臣として信長排除を試みていますが、その後は許されて信長の配下に。そして畿内平定戦や姉川の戦い、一乗谷の戦いなど、織田信長にとっての主要な戦いのほとんどで大活躍しています。
そんな彼ですが、その人生のピークはあくまでも信長あってものだった、という感があります。本能寺の変の後、信長の後継を決める清須会議で秀吉と決裂して以降は、どこか破滅への道を進んでいるようにすら見えます。
その後、なぜ賤ケ岳の戦いで彼は敗北し自害に追い込まれたのかというと、やはり勝家の家族関係を把握した上でそれを利用したりした、秀吉の知略によるところが大きいでしょう。
勝家と秀吉の両者が武力衝突に至ったのは、1582年12月のことです。秀吉が長浜城を落とし、岐阜城の織田信孝を降伏させたのがきっかけでした。
その後、秀吉軍は優勢で戦いを進めていきますが、戦いは4月まで長引いてきます。それまで雪のため動けなかった勝家も、ようやく出陣して近江柳ケ瀬まで進軍しました。