信長の台頭と朝倉の抵抗
戦国時代の謎のひとつに、織田信長の義弟である浅井長政は、なぜ信長を裏切ったのか? というのがあります。
この裏切りによって、信長が「金ヶ崎の退き口」へと至り、のちの豊臣秀吉が大出世するほどの功績を挙げたことを考えると、無視できない歴史的事件だと言えるでしょう。
まずは、長政が裏切るまでの経緯を見ていきましょう。
1570年の正月、足利義昭を将軍に据えて強力な後ろ盾を得た織田信長は、義昭に対して有名な21カ条の掟書を提示します。
その内容は、例えば文書を出す際は必ず信長に内容を知らせるべし、信長は将軍の承諾抜きで逆らう者を成敗できる……など、義昭よりも信長の方が格上であることを示すものでした。
この掟書の提示とあわせて、信長は畿内の大名たちに、上洛して天皇と将軍へ礼参するようにとお触れを出しました。
しかし、これに拒否した大名がいました。越前の朝倉義景で、彼のことを信長は、幕府の命令に背く反逆者と見なして討伐を決定します。