北条政子が「尼将軍」と呼ばれたのはいつからなのか?【鎌倉殿の13人 こぼれ話】

「鎌倉殿と同じ力を認めていただきます。呼び方はそうですね、尼将軍にいたしましょう」

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第46回放送「将軍になった女」より

第3代・源実朝(みなもとの さねとも)暗殺後、主なき宿(鎌倉殿が不在)となってしまった鎌倉。そこで次の鎌倉殿候補として三寅(みとら。当時2歳、後の藤原頼経)を迎え、その後見役になった尼御台・北条政子(ほうじょう まさこ)。

実質的な鎌倉殿として後世「尼将軍」と呼ばれた政子ですが、まさか面と向かってそう呼ぶ者はおらず、また当人が名乗るはずもありません(将軍位は畏れ多くも朝廷より補任されるものであり、それを自称するほど非常識ではなかったでしょう)。

果たして政子を「尼将軍」と初めて呼んだ記録(文献史料)は何なのか、今回はそれを調べたので紹介させていただきます。

確認できる限り、政子を「尼将軍」と記している最古の史料は『紀州由良鷲峯開山法燈円明国師之縁起(きしゅうゆら じゅほうかいざん ほっとうえんみょうこくしのえんぎ)』。長いのでここでは以下『縁起』とします。

政子が庇護した興国寺(和歌山県由良町)の開山である無本覚心(法燈国師。承元2・1208年生~永仁6・1298年没)の略年譜です。そこにはこのように書かれていました。

……実朝御母儀尼将軍 頼朝之御内従二位政子……

【意訳】実朝の御母君である尼将軍(源頼朝の妻で従二位の北条政子)

※『紀州由良鷲峯開山法燈円明国師之縁起』安貞元年(1227年)10月15日条

政子は嘉禄元年(1225年)に亡くなっているため回想シーンとなります。奥書によれば弘安3年(1280年)に記録をまとめた原本が成立したと伝わりますが、本記述のある現存写本は永正14年(1517年)のもの。

3ページ目 政子の死後に解禁された?

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