細川氏との関係
【前編】では、戦国時代に一向一揆が力を持つようになった流れを説明しました。
100年も戦国大名を脅かした「一向一揆」はなぜ、どのように勢力を増していったのか【前編】
【後編】では、その一向一揆の力の背景にあったものを解説します。
本願寺の八代目法主・蓮如は、各地を渡り歩く中で浄土真宗の布教を行い、それに伴って一向一揆の参加者も増えていきました。
本願寺が、一向一揆に参加した人々をこれほど強力に動かすことができた理由のひとつとして、幕府重鎮との縁組政策が挙げられます。
本願寺の九代目法主である実如は、実は細川勝元の子にあたり、もともと武将たちと繋がりの深い人物でした。
彼はその縁で細川政元との関係を深めており、1506年には政元から、河内の畠山義就の孫・義英を攻めるための討伐軍へ、本願寺の宗徒を加えて欲しいという要請まで受けていたのです。
しかしこの要請を、河内にいた信徒らは拒みました。そこで実如は、そのかわりに加賀の一向一揆勢を動員します。加賀の方が、本願寺に忠実な信徒が多かったのです。
このように、本願寺が力を持ったのは、細川政元という後ろ盾の存在も大きかったと言えます。本願寺勢は政元の力を利用しつつ、政元が政敵を攻める際には力を貸すというウィンウィンの関係にあったのです。
「退けば地獄」の伝説
さて、1546年に越前で尾山御坊(金沢御堂)が建てられると、一向一揆勢はそこを拠点にして一挙に北陸へと勢力を拡大しました。
これにより、越前を統治していた朝倉氏や、後に北陸へも進出することになる上杉謙信との激突は避けられない情勢になりました。
そしてその後は、言うまでもなく織田信長との争乱へと突入し、さしもの信長も彼らには苦しめられることになり10年以上も戦いを繰り広げることになるのです。
これは証拠がなく、俗説ではありますが、一向宗の信徒たちは戦に臨む際、ムシロに大きく進めば極楽、退けば地獄と書いたものを掲げて、一死報恩の勢いで戦ったとも言います。これは事実かどうかは不明ですが、少なくともそうした伝説が生まれてもおかしくないほど、彼らは決死の覚悟で戦国時代に臨んでいたのでしょう。
このように、当時の一向一揆勢は、一国の領主や大名を脅かすほどの脅威的な勢力でした。
もともと日本では、寺院は昔から経済的にも大きな力を持っており、僧たちも武装して争っていた上に、時には政治まで動かすこともありました。
戦国時代は、そうした寺院勢力の勢いが最高潮に達した時期だと言えるでしょう。中央政府(幕府)が権威を失ったことで、寺に属する僧だけではなく、その信徒をも巻き込んで、勢力を拡大していったのです。