人間誰しも親疎の情は湧くもので、疎遠な人よりも親密な人の方を重んじたくなってしまうのは無理もありません。
しかし親愛の情も行き過ぎると身びいきとなり、平成・令和の昨今でも「お友達政治」などが批判されるように、社会の腐敗につながってしまいます。
その一方で、どれほど親しい間柄であろうと依怙贔屓することなく、公正無私に努める人物も少なからずいました。
今回はそんな一人・平岩親吉(ひらいわ ちかよし)のエピソードを紹介。徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えて活躍した彼は、どんな心意気を見せるのでしょうか。
弟・平右衛門と小平太(榊原康政)の喧嘩
主計頭に任ず、犬山十万石に封ぜらる。慶長十六年十二月晦日卒、年七十。
※『名将言行録』巻之五十三○平岩親吉
【意訳】主計頭(かずえのかみ)となり、犬山十万石を治めた。慶長16年(1611年)12月30日(太陰暦では全月30日で統一)に70歳で亡くなった。
……今は昔し、親吉には平岩平右衛門(へいゑもん)という弟がいました。
ある日、平右衛門が徳川家中の榊原康政(さかきばら やすまさ。小平太)と口喧嘩となり、堪りかねた康政が平右衛門に斬りつけたのです。
「何をするか!」
平右衛門は避けきれず、少し斬られてしまいました。騒ぎを聞きつけた周囲の者に引き離された二人は、家康の前に引き出されます。