このチャンス逃すまじ!北条泰時を論破し、承久の乱に加わった安東忠家【鎌倉殿の13人】

不謹慎な話ですが、社会が混乱すると非日常を感じてワクワクしてしまう人って、一定数いますよね。

内心ワクワクするだけならまだいいのですが、混乱に乗じて平素の不始末をチャラにしようと目論む者も少なくはありません。

喩えるならカミュの小説『ペスト』に登場する悪党コタールのような……たいてい平時にはロクデナシですが、歴史を振り返るとこういう時には英雄も登場するものです。

今回は鎌倉時代、武家政権の運命を分けた承久の乱(承久3・1221年5~6月)で活躍した安東忠家(あんどう ただいえ)のエピソードを紹介したいと思います。

泰時を論破?上洛の軍勢に無理やり加わる

安東忠家は生年不詳、通称は次郎兵衛尉(じろうひょうゑのじょう)。北条義時(ほうじょう よしとき)に仕えて相棒の金窪行親(かなくぼ ゆきちか。太郎左衛門尉)とコンビでしばしば活躍しています。

泉親衡(いずみ ちかひら)の謀叛に加担した和田胤長(わだ たねなが)を捕らえたり、御家人同士の騒擾を鎮めたりなど、執権義時を支える力持ちでした。

また、和田合戦(建暦3・1213年5月2~3日)の首実検や戦後処理、源実朝(みなもとの さねとも)を暗殺した公暁(くぎょう/こうぎょう)の首実検にも立ち会っています。

それが何をやらかしたのか、義時の命に背いたかどで謹慎を命じられ、駿河国(現:静岡県東部)に引き籠っていました。

「あ~あ。鎌倉殿がまだ幼いから今にも天下が乱れようと言うのに、謹慎なんてまったくツイてねぇな……」

次はバレないようにやろう……なんてぼやいている内、とうとう開戦の報せが届きます。

「右京兆(義時)はどうするんだ?まさか降伏なんかしねぇだろうな?」

情報の遅い駿河国でやきもきしていたところ、やって来ました「俺たちの泰時」こと北条泰時(やすとき)。どうやら朝廷と一戦構えるようです。

「そう来なくっちゃ……おーい武州(泰時)!」

さっそく駆けつけて、従軍を願い出る忠家。しかし泰時はいい顔をしてくれません。

3ページ目 「ダメだ。そなたは謹慎中であろう」

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了