稀有な義理堅さが仇となった名将。賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の生涯をたどる

豊臣政権時代の出世頭

賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)の一人と呼ばれた名将・福島正則(ふくしままさのり)という人がいました。しかし彼は、豊臣秀吉の時代から徳川時代にかけて、かなり浮き沈みの激しい人生です。その人生を辿ってみましょう。

彼は、永禄4(1561)年、尾張国海東郡生まれ。母が豊臣秀吉の叔母で、正則は幼少期から秀吉に小姓として仕えていました。また同時期に、同じく小姓だった加藤清正とも親交を結んでいます。

その後、天正6(1578)年に、世にいう三木合戦で初陣を飾ってからは、鳥取城の戦いや山崎の戦いで猛将ぶりを発揮し、播磨で500石を与えられす。さらに天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは敵将の拝郷家嘉を討ち取り、他にも武功を挙げた武将たちと並んで賤ヶ岳の七本槍と称されるようになりました。

ここで名を挙げたのが、戦国武将としては彼の最高潮の時期だったと言えるでしょう。その名を天下に轟かせた彼は恩賞として5千石を与えられましたが、「七本槍」の他の6人は3千石でした。福島正則は、七本槍の中でも別格の扱いだったのです。

その後は伊予国11万石を与えられ大名となり、秀吉の天下統一後も文禄の役で朝鮮へ渡り、帰国後には尾張国24万石に加増転封されました。

徳川時代も豊臣方に義理立て

しかし、慶長3(1598)年に秀吉が死去してから、彼の前途にも暗雲が立ち込めてきます。

以前から険悪な関係だった、石田三成を筆頭とする「文治派」との対立が激化したのです。正則や加藤清正をはじめとする「武断派」の武将たちは、徳川家康に接近していきました。

そして小山評定の折には、正則はいち早く家康の側につくことを宣言し、東軍の先鋒を任されて西進します。関ケ原の戦いでは開戦直後から終結まで最前線でその力を発揮し、東軍勝利に貢献したことは周知の通りです。

その結果、彼はもともと毛利氏の所領だった安芸国広島と備後国鞆49万8千石を与えられました。

正則はこれらの国の整備につとめ、殖産興業を奨励して領内の発展に努めるなど、広島藩の発展の基礎を築いていきます。

ただ、一方で彼は、もともとの主君である豊臣家への義理も欠かしませんでした。秀頼が病を患ったと聞けば、見舞いと称して大坂城を訪問。また家康が二条城での会見を秀頼に迫った時は、会見に反対する淀殿などを説得し、秀頼の上洛を実現させています。

しかし、豊臣家と縁深い有力大名が相次いで亡くなると、家康は豊臣家を滅ぼすべく慶長19(1614)年に大坂冬の陣を起こします。

この時、正則は大阪城への派遣を申し出ますが許可されず、江戸留守居役を命じられました(この時、大阪へは代わりに子の忠勝が出陣しています)。

正則は、このように、下剋上も当たり前の戦国の世を潜り抜けてきた人間でありながら、大変に義理堅い武将でした。彼は豊臣方が、正則の大坂屋敷から蔵米8万石を接収するのも黙認しましたし、一族の福島正守と福島正鎮が豊臣勢に加わっても止めなかったと言われています。

ただ、かつての主君に義理立てする彼の態度は、徳川家に強い警戒心を湧かせることになります。

3ページ目 時代にあわせられなかった男

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