武士の結婚と言えば、その多くが政略結婚。当人同士の感情は置き去り、少なくとも後回しにされがちでした。
実際多くの夫婦はそうだったようですが、古来「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」とはよく言ったもの。生活を共にする中で愛情が生まれることは少なくありません。
そしてひとたび愛情が生まれてしまうと、いざ政略の都合で別れろと言われてもなかなか割り切れないものです。
今回は鎌倉時代、必死に愛妻を守ろうとした御家人・北条朝直(ほうじょう ともなお)のエピソードを紹介したいと思います。
妻と別れさせるなら出家する!両親と大喧嘩した朝直
北条朝直は建永元年(1206年)、北条時房(ときふさ)の子として誕生しました。母親は足立遠元(あだち とおもと)の娘です。
通称は相模四郎(さがみのしろう。父が相模守だったため、その四男)、やがて伊賀光宗(いが みつむね)の娘を正室に迎えた朝直はたいそう妻を可愛がったと言います。
しかし貞応3年(1224年)6月に伯父の北条義時(よしとき)が亡くなり、その後継者争い(伊賀氏の変)によって伊賀氏は失脚。光宗は流罪にされてしまいました。
「舅殿のことは残念だが、娘であるそなたには関係ない。これからも、我が許におれ」
「……はい」
程なくして光宗は赦され、鎌倉に帰ってきたものの、やはり謀叛人と縁続きというイメージはつきまといます。