武田信玄と真田忍軍のマッチング
真田家の棟梁・真田幸隆が、真田忍軍によって砥石城を攻略したことを前編までで説明しました。
戦国時代屈指の忍者集団「真田忍軍」!その活躍ぶりと武田信玄との関係とは?【前編】
真田忍軍のルーツ戦国時代に真田家を支えた真田忍軍は、後世で真田十勇士のモデルになるほど人気があります。彼らが活躍したのは戦国時代の中頃から江戸時代初期にかけて。信濃国(現在の長野県…
この時の幸隆の活躍が、武田家における真田氏の立場を大きなものにしていきます。
砥石城攻略の際、武田信玄は幸隆を支援するために信濃国東部の小県郡・佐久郡へと侵攻し、抵抗勢力を一掃していました。そして同地域を完全に支配下に置きました。
幸隆は砥石城攻略の功績が認められ、城を預けられます。またこの時、海野一族の旧領である小県郡も回復しました。
さて当時、何よりも「情報収集」を重視していた信玄は、忍者集団を組織して透破(すっぱ)と呼ばれる忍者の養成に力を入れていました。
そして、育成した忍者たちを全国各地に送り込み諜報の任務にあたらせ、そこから上がってくる各国のさまざまな情報を総合することで敵の弱点を見極め、戦を有利に進めていったのです。
そんな信玄が、幸隆や真田忍軍に注目したのは当然のことと言えます。
このような背景もあり、真田幸隆は信濃先方衆という外様の立場でありながら、譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えるようになりました。
そして彼は、信玄の懐刀として「武田家の陰の軍師」「信玄の名参謀」と呼ばれるようになりました。