藤沢市大庭には、「大庭城址公園」という大きな公園があります。この辺りは、縄文や弥生の住居跡などの遺跡なども見つかっており、古くから人が住んでいた土地だったということがわかります。
平安時代、元々この辺りは鎌倉景正(かまくらかげまさ)という人物によって開発されました。
その範囲は広く、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)一帯に及びます。
敷地内には、景正が馬を繋いだとされる臺谷戸稲荷(だいやといなり)があります。
1166(永久4)年頃になると景正は、自分の開発した地域を「大庭御厨」(おおばみくりや)として伊勢神宮へ寄進しました。いわゆる“寄進地系荘園”です。
これにより、景正の開発した地域は伊勢神宮の庇護をうけ、納税の必要がなくなっただけではなく、国司の派遣した役人なども容易に踏み込ませなくすることができるようになりました。
莫大な土地と権力を手中に収めた景正の子孫は代々大庭氏と名乗り、この土地に土着しました。
保元の乱以降、大庭氏は源氏の配下となり源義朝の元で活躍していましたが、その際、大庭景義が「無双の弓矢の達者」と名高い敵方の将・源為朝に膝を射ぬかれてしまいました。
これによって、景義の弟である大庭景親が家督を継ぐことになります(景義・景親は景正の曾孫にあたります)。