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武将・楠木正成はこうして「軍神」に!奇策が炸裂しまくりの千早城の戦い【前編】
兵糧攻めも通じず
落石攻撃や弓矢の攻撃で、幕府軍を寄せ付けない楠木正成の軍。
幕府側の「水断ち」作戦も通用せず、逆に攻勢に出るほどでした。さらにその翌日には、前日の奇襲で奪った敵の旗を、城壁の上で振って名越軍を挑発します。
大勢の面前で恥をかかされた名越時見は激怒し、正成の挑発に乗って一斉攻撃を仕掛けますが、崖から大木や石を落とされて甚大な被害を受けてしまいます。
楠木軍に完全に翻弄された幕府軍は、力攻めを諦めて、城を囲んで兵糧攻めを試みます。
しかし、正成もこれは想定済みで、ここで敵の心理を逆手に取った巧妙な作戦に出ました。
彼は、城の麓に盾と鎧をかぶせた数十体のわら人形を設置し、その後ろに兵を潜ませます。
そして、夜が明けると兵たちに鬨の声を挙げさせ、「楠木軍が攻撃してきた」と思って攻めてきた幕府軍に対して、兵は矢を放ちつつ退却しました。
それを追う幕府軍ですが、藁人形に到達したあたりで崖の上から大量の巨石を投げ落とされます。
油と炎で防御
結局、幕府軍は城に攻め込めません。そんな中、鎌倉にいる執権の北条高時から、早く城を攻め落とすようにとの命令が下り、再び千早城攻略に乗り出します。
ここで考えられたのが、味方の陣と敵城の間を遮る深い崖に長い梯子をかけ、敵の想定しない所から攻め入る作戦でした。
しかし、幕府軍が梯子をかけて攻め上ろうとすると、これも読んでいた楠木軍は水鉄砲に油を仕込んで放射し、さらに松明を投げつけて梯子を炎上させたのです。
幕府軍はすぐに退却できればよかったのですが、後続の兵たちが詰まっているためそれもできず、大混乱に陥りました。そして数千人の兵が、焼け落ちた梯子と共に崖下に落ちたといいます。
度重なる敗北で打つ手もなく、幕府軍は戦意を喪失し、城を遠巻きにしたまま動けなくなってしまいました。
幕府の滅亡
そうこうしている間に、正成の読み通り倒幕運動が活発化します。
まず1333年2月、後醍醐天皇が名和長年の協力を得て、配流となっていた隠岐を脱出。
さらに、播磨国の赤松則村が、千早城攻めで手薄となっていた京を襲撃します。
そして、赤松軍討伐のために京へ派遣された幕府方の有力御家人である足利尊氏が謀反し、幕府側の軍事拠点である六波羅探題を攻め陥落させてしまいます。
京を占領された幕府側はもはや千早城どころではなくなり、5月10日、ついに総撤退しました。
正成は3ヶ月の籠城戦を戦い抜き、20万の幕府軍に対しわずか千人の兵で勝利を収めたのです。
そして、とどめとばかりに関東で挙兵した新田義貞が鎌倉に攻め込み、5月22日に鎌倉幕府は滅亡したのでした。