各藩で砂糖作りが盛んに
前回の記事 砂糖は昔は高級品だった!日本国内での普及・製造の歴史をたどる【前編】
砂糖が大いに普及した江戸時代ですが、しかし17世紀後半には、砂糖の代金として使っていた金銀が国内でも枯渇し、輸入がままならなくなります。
金銀の海外への流出を防ぐため、砂糖の国産化を奨励したのが8代将軍・徳川吉宗です。
また、殖産興業を目指す各藩も、価格が高く利益率の高い砂糖に着目し、自領内での栽培に積極的になっていきました。
これによりサトウキビ栽培は太平洋湾岸・瀬戸内沿岸などの温暖地域で広く行われるようになります。
特に讃岐の高松藩は、特産品となる「和三盆」の開発に成功し大きな収益を得ました。天保期には讃岐産の砂糖が国産白砂糖のシェアの6割を占めるまでになり、ご存じの通り、和三盆は今も香川県の名物です。
製糖会社の登場
しかし、明治時代には海外の安い砂糖が大量に輸入され、国内の製糖業は徐々に衰退していきます。
さらに1894年に台湾が日本領になると、台湾総督府は糖業を中心とした開発を行い、国内の製糖業は奄美大島と沖縄の黒砂糖を除いて壊滅状態に陥りました。
とはいえ、海外から近代的な精糖技術が入ったことで大規模な工場が作られるようになり、砂糖は大量生産されるようになります。
かの渋沢栄一は、1895年に大日本製糖の前身となる日本精糖を設立。また、1906年には相馬半治が台湾で糖業指導に当たり、台南で明治製糖を設立しました(渋沢栄一はこちらの創業にも携わっています)。
こうして、台湾で大工場による製糖業が確立され、生産体制が整備されたことで、ようやく一般庶民にも砂糖が行き渡るようになります。