「透視能力」が日本で初めてメディアに取りあげられたのは、明治後期頃。御船千鶴子という女性が透視能力に目覚め、透視能力ブームを巻き起こしました。
しかし日本中を盛り上げた透視能力ブームは、ある事件の結末とともに終焉を迎えます。
この事件に大きく関与した、御船千鶴子の人生について詳しくみていきましょう。
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御船千鶴子
御船千鶴子は、生まれつき難聴を患っていました。小さい頃はまだ、両耳で音を聞く事ができていましたが、成人するころには左耳からまったく音が聞こえなくなったそうです。
感受性が強かった千鶴子は難聴の影響もあってか、物事をネガティブに捉えるようになっていきます。
そんな千鶴子は、22歳の時に陸軍中佐だった河地可謙と結婚。
しかし、幸せな時期はそう長くは続きませんでした。
透視能力の顕現
夫は結婚後わずか3週間で遠方の守備隊に転属となり、同居していた舅や姑からは疎まれる日々。そんなある日、千鶴子の透視能力は突如、顕現します。
ことの発端は夫である河地可謙さんの財布から50円が紛失したことでした。
当時の50円は、現在の100万円に相当する大金。そんな大金の行方を、「姑の使っている仏壇の引き出しにある」と言い当てたのです。
犯人は謎のままですが、大金を盗んだ容疑をかけられた姑は苦に耐えきれず、自殺未遂。この事件がきっかけとなり、夫との関係が悪化し離婚した千鶴子は、実家へ戻ることになります。
姉の夫にかけられた催眠術
実家に戻った千鶴子のもとに、姉の夫がやってきて「お前は透視ができる」と暗示のように言い聞かせました。姉の夫には千鶴子に催眠術をかけて透視能力を最大限に引き出そうという目論見があったようです。
産まれつき感受性の高かった千鶴子にとって催眠術は効果覿面。透視能力の才能をグングン伸ばしました。
あるとき、千鶴子が「日露戦争のとき、撃沈した軍艦のなかに第六師団はいなかった」と言い当てたことで、世間までもが本当の超能力者だと信じはじめたのです。
ついには、京都帝国大学医科大学や東京帝国大学文科大学から、透視能力の研究対象としても指名されています。