勢いが止まない浄土宗
浄土宗で「三大法難」と呼ばれているもののひとつに、「嘉禄の法難」というのがあります。前回までで「元久の法難」「建永の法難」について解説しました。
【三大法難その①】専修念仏をやめろ!?「元久の法難」で浄土宗と開祖・法然にふりかかった災難
【三大法難その②】法然上人、齢75にして島流し!浄土宗三大法難のひとつ「建永の法難」とは?
嘉禄の法難は、浄土宗の開祖である法然が亡くなった後に、彼による著作物の内容が他の仏教宗派の逆鱗に触れて、墓あばきや焚書にまで至った事件です。
今の時代からはとても考えられない、仏教同士の抗争の内容を見ていきましょう。
嘉禄の法難は、嘉禄3年(1227年)法然の没後に発生しました。
法然がいなくなってからも、その教えを慕う人たちはよく集まり、積極的に活動していました。これに対して朝廷から専修念仏の停止(ちょうじ)の命が下ったものの、浄土宗信者の勢いを抑えることはできませんでした。
そんな中、法然が生前に九条兼実の要請を受けてまとめた『選択本願念仏集』という念仏集が、トラブルを引き起こします。
天台宗による排撃
『選択本願念仏集』は、法然の生前はごく一部の門弟のみ書写を許されたという秘蔵の書物でした。
他の宗派との関係を良好に保っておきたかった法然は、この本について、宗派同士の争いの引き金になりかねない内容だったため気を配っていたのです。
しかし、これが法然の没後に一般に公開され、他の宗派の僧の目に触れることになるのです。
そしてすぐに、生前の法然が懸念していたであろう事態が起こってしまいます。
華厳宗の明恵(みょうえ)上人が『選択本願念仏集』に対して強い批判を浴びせたのです。
続いて天台宗の僧・定照(じょうしょう)が『弾選択(だんせんちゃく)』で念仏集を非難し、これに対して法然の門弟であった隆寛(りゅうかん)が『顕選択(けんせんちゃく)』を著して真っ向から対立しました。
すると、これに定照をはじめとする比叡山延暦寺の僧たちが怒り、法然の墓を暴いて遺骸を鴨川に流そうとします。
これは六波羅探題の介入によって逃れたものの、法然の遺骸は嵯峨に運ばれ、太秦の興隆寺に移されることになりました。
このことをきっかけに、延暦寺による専修念仏の排除はますます加速していくことになります。