「元久の法難」からくすぶる火種
浄土宗史上で、三つの大きな「法難」として「元久の法難」「建永の法難」「嘉禄の法難というのがあります。前回は、「元久の法難」について説明しました。
前回の記事
【三大法難その①】専修念仏をやめろ!?「元久の法難」で浄土宗と開祖・法然にふりかかった災難
専修念仏の「解釈違い」浄土宗には「三大法難」と呼ばれている、浄土宗そのものが危機に陥った出来事が三つあります。今回はそのうちのひとつ「元久の法難」について解説します。これは、後の「建永の法…
元久の法難は、浄土宗の専従念仏をやめさせるよう朝廷に訴えられて、危うく浄土宗がピンチに陥った事件でした。これは朝廷の理解もあって難を逃れましたが、この時の火種はその後もくすぶり、今度は「建永の法難」が発生します。
この「建永の法難」では何が起きたのでしょうか。
これは「承元の法難」とも呼ばれており、興福寺が専修念仏を批判したのがきっかけとなり、ついに建永2年(1207年)に浄土宗の開祖である法然が流刑となった、一連の事件のことを指します。
元久2年(1205年)、興福寺は朝廷に、二度に渡って浄土宗の専修念仏の停止(ちょうじ)と法然およびその門弟に対する懲罰を求めました。「元久の法難」です。
しかし朝廷は、専修念仏の問題は法然の門弟の浅智によるものとし、法然にも罰は与えませんでした。
結果、その後も不満を溜めていく興福寺。
そのような状況の中、ある事件が起きてしまいます。
法然の門弟のなかに、住蓮と安楽という二人の若者がいました。二人は見た目も声も美しく、ひとたび二人の別時念仏・六時礼讃(一日6回念仏を唱える行儀)が始まると多くの民衆が集まったといいます。
この、集まった人々の中に、松虫姫と鈴虫姫という二人の女性がいました。
住蓮と安楽の念仏にいたく感激を受けたこの二人の女性は、実は後鳥羽上皇が寵愛していた女房でした。
そして上皇が熊野参詣で留守をしている間に、彼女たちは勝手に出家してしまったのです。