絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その1】

高野晃彰

狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)。建仁寺方丈の『雲龍図』に代表されるダイナミックな作風の水墨画など多くの名作を残している。

友松は近江浅井家で重臣を勤めた武家海北家の出自で、画家として活動する傍ら生涯にわたり、その再興を目指していた。

また、本能寺の変で刑死した斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)と親友関係にあり、その遺骸を奪還した逸話で知られる武勇の人でもあった。

今回はそんな海北友松の生涯を3回にわたりお話ししよう。

建仁寺方丈に描かれた雲竜図

1599(慶長4)年、京都最古の禅寺といわれる建仁寺の方丈・札の間内に佇む男がいた。男の前には縦2mにも及ぶ巨大な襖に描かれた二面の雲龍図がある。

北面の襖には咆哮とともに雲間から出現する龍。そして、西面の襖には待ち構えるように睨みをきかす龍。それぞれ雲を従えながら、今まさに天に昇ろうとする姿が圧倒的な迫力で描かれている。

男の近くにいた僧が尋ねた。
この龍は天下様(豊臣秀吉)を表しているのでしょうか。

男は答えず、ただじっと龍を見つめ、
これは蛟龍(こうりゅう)だ。

そう呟くと、振り返ることなく札の間を出て行った。

男の名は、海北友松(かいほうゆうしょう)。建仁寺方丈の雲龍図を描いた本人であり、この時すでに67歳という老齢に達していた。

しかし、広大な建仁寺方丈の5つの部屋に雲龍図のほか、全52面の水墨画障壁を描き切っただけに、とても70歳近い老人には見えなかった。

この雲竜図は、『建仁寺方丈障壁画 雲竜図襖』として今に伝わり、重要文化財に指定されている。

2ページ目 浅井家に殉じた海北家の再興を目指す

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