前編では、島津義弘が関ケ原の戦いに参戦した経緯について説明しました。後編では、義弘の退却戦である「捨て奸(すてがまり)」戦法について説明します。
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「関ヶ原の戦い」で翻弄された島津義弘!玉砕戦術 ”捨て奸”に至るまでの壮絶なドラマ【前編】
なぜ「捨て奸」が必要だったのか?かの島津義弘は、関ケ原の戦いで有名な「捨て奸(すてがまり)」というある種の玉砕戦術を採用しています。[insert_post id=173363]そ…
関ケ原で孤立した島津軍
1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
西軍・石田三成は関ケ原の北に位置する笹尾山へ陣を取り、義弘もそこから南の位置に布陣しました。
当初、西軍が圧倒的に有利だったといわれています。しかし小早川秀秋の裏切りや、毛利軍が機能しなかったことから形成は一気に東軍に傾き、逆転してしまうのです。
三成は伊吹山へ敗走し、小西行長、宇喜多秀家の軍も次々と敗走。西軍は散り散りになり、島津軍は戦場のさなかに取り残されてしまいました。
当初は1,500人ほどの人数だった島津軍は、この時すでに300人ほどになっていたようです。
ここで義弘は選択を迫られます。東軍と最後まで戦って討ち死にするか、後方に退いて近江へ退却するか、または前方へ抜けて大垣へ退却するかのいずれかでした。
義弘は前方に抜けて大垣へ退却することを選びます。
そしてこの大垣への退却の際に「捨て奸(すてがまり)」の戦法が取られました。