「鎌倉殿の13人」で重要な役割を演じる後白河法皇・後鳥羽上皇ら院の権力者たち。
そんな彼らが頻繁に行った熊野御幸について、2回にわたりお話してきました。
なぜ熊野詣に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?そもそも熊野詣ってなに?【その1】
なぜ熊野詣に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?そもそも熊野詣ってなに?【その2】
最終回の【その3】では、なぜ上皇たちが熊野詣を行ったのか、特に回数が多い後白河法皇と後鳥羽上皇を中心にお話ししましょう。
熊野御幸を行った上皇たち
世の中が動乱期に入り、不安が広がると熊野詣が盛んになります。しかし、熊野詣を有名なものにしたのが、平安時代の最高権力者である上皇による参詣「熊野御幸」でした。
「御幸」とは、上皇・法皇・女院の外出を指し、天皇の外出は「行幸」といいます。
熊野御幸を行った上皇とその回数は以下のようになります。
●宇多法皇…1回
●花山法皇…1回
●白河上皇…9回
●鳥羽上皇…21回
●崇徳上皇…1回
●後白河法皇…34回
●後鳥羽上皇…28回
●後嵯峨上皇…2回
●亀山上皇…1回
初めて熊野御幸を行ったのは、宇多法皇で907(延喜7)年のことでした。それから約100年後の1090(寛治4)年に白河上皇が熊野御幸を行い、以降9回にわたり熊野に詣でます。
白河法皇の後、保元の乱で敗れ配流先の讃岐で憤死した崇徳上皇を除けば、鳥羽上皇21回・後白河法皇34回・後鳥羽上皇28回と、ずば抜けて多い熊野御幸を行っています。
白河・鳥羽・後白河・後鳥羽はみな院政を敷いた上皇として知られています。なにやら熊野御幸が、院政と深い関係にあることに気づかされるでしょう。