古今東西、美人と呼ばれる人はたくさんいますが、明治時代末期に、「日本一の美人」と呼ばれた女性がいました。
その名は、「萬龍(まんりゅう)」。
人気を博した芸妓さんでした。「美人は人生が楽でいいよな~」と思うかもしれませんが、実は萬龍は波乱万丈な人生を送りました。
今回は、そんな彼女に迫ってみたいと思います。
なお、「まんりゅう」の表記については、文献によってさまざま(万竜、万龍、萬竜など)あるようですが、この記事では「萬龍」で統一します。
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可愛すぎで小学校を退学!?萬龍の生い立ち
萬龍の本名は田向静(たむかう しず)と言います。明治27(1894)年に東京・日本橋で生まれた彼女は、子どものころから困難に見舞われます。
運送屋の下請けをしていた父親が肺病となり、家庭は困窮。彼女が7歳のときに芸妓置屋・春本の蛭間そめの養女になり、蛭間静子(ひるま しずこ)となりました。
彼女は赤坂の小学校に入学しますが、美しく服装も華やかだったことから他の子どもに見せられない、という理由で、学校から通学を拒まれたこともあったそうです。
芸妓として、絵葉書美人となる
明治40(1907)年、数えの14歳の時に、お披露目をした萬龍。当時は人々の絵葉書への関心も高まっており、なかでも人気だったのが「美人絵葉書」でした。
現代ではアイドルのブロマイドに近いものだった「美人絵葉書」、そのなかでも萬龍は大人気でした。
流行歌に「酒は正宗、芸者は萬龍」とうたわれるほどの評判でした。