前編では、「鹿ヶ谷の陰謀」発生に至るまでの流れを説明しました。後編では、その続きを説明します。
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平清盛の権力を頂点まで引き上げた陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」とは?【前編】
上皇、平家、朝廷、寺院の四つ巴6月になりましたね。平清盛の政争の1つとして有名な、「鹿ケ谷の陰謀」という事件があります。実はこれが発生したのがちょうど1177年の6月1日でした。この内容を前編と後…
衝突近し、朝廷と延暦寺
後白河上皇のやり方に、延暦寺は怒ります。僧兵たちは、伊豆へ連行中だった明雲を道中で奪還した上で、朝廷に対して兵を向けようと戦の準備を始めました。
これに対抗して、今度は後白河上皇も武力行使を決意。比叡山への派兵を平重盛(清盛の嫡男)に指示しました。
これだけでも眩暈がするような地獄絵図ですが、ここで平家が登場したことで、事態は思いも寄らぬ方向に進展していきます。
命令を受けた重盛は、当時は内大臣を務めており、朝廷に忠実な立場でした。その一方で平家と比叡山は友好関係にあるので、両者の板挟みとなってしまいます。
苦慮した重盛は清盛に相談し、そこで清盛は後白河上皇をなだめて派兵を何とか食い止めようとします。
が、後白河上皇の度重なる頼みを断りきれなくなり、ついに兵を動員することを決断します。
そんな清盛の元に1177年6月1日、「鹿ケ谷の山荘で後白河上皇やその近臣たちが、平家を倒すための密議をしている」との密告がもたらされます。
俊寛や西光、藤原成親といった後白河法皇の側近たちが「打倒平家」の密議を行っていたのです。その場にいた多田行綱が、事の重大さに恐れをなして清盛へ密告したのでした。