Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。現在ウクライナ侵攻を進めるロシアとウクライナの戦争に関する痛ましいニュースが日々伝えられていますが、日露戦争を経験した事のある日本にとって、ウクライナの痛ましい映像は決して他人事ではありません。
未来の戦争を未然に防ぐためにも、前回に引き続き日露戦争はなぜ起こったのか、その経緯を振り返りたいと思います。
前回の記事はこちらウクライナ侵攻は他人事ではない!?日露戦争はなぜ起きたのか【前編】
揺れる日本政府
1901年からのロシアの満州不法占拠によって、日本に日本とロシアの不和が決定的になりました。日本政府内は戦争やむを得ずという主戦派、絶対に勝てないから戦争はやめようという戦争回避派で直前まで意見が割れていました。
そんな中、主戦派が中心となって1902年に日英同盟が結ばれ、ロシアとの開戦に向けてイギリスという強国を味方につけた事で日露戦争が少しずつ現実味を帯び始めました。
戦争回避派の主力である伊藤博文が日本を留守にしたその間に締結されたのです。
日本とロシア交渉決裂
外国でそれを知った伊藤博文は焦ります。彼は戦争回避のためにロシアに最後の切り札「満韓交換論」を提案しました。
内容は「満州でのロシアの権利は認めます。その代わり、朝鮮半島での日本の権利を認めて手を出さないでください」というもの。
しかしロシアは「満州はすべてロシア領とし、朝鮮北部は中立化する」と返答しました。朝鮮北部中立化とはつまり、朝鮮半島も決して譲る気はないよという日本に対する挑発だったのです。
こうして伊藤博文の対ロシア交渉も決裂。この瞬間、日本政府は泣く泣く日露開戦を決意したのです。