家康の支援を求め雪山だって越えていく!とにかく一本気だった戦国武将・佐々成政の逸話

雲川ゆず

歴史好きの人であれば「さらさら越え」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。これは、戦国武将の「佐々成政(さっさなりまさ)」が冬に行った山越えのこと。

この行動には理由があるのですが、彼はそれ以外にも様々な逸話を残していました。一本気な性格だった佐々成政について見ていきたいと思います。

 

織田軍のエリート!佐々成政とは?

佐々成政(さっさ・なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。彼の父の代から織田家に仕えており、成政自身も早くから信長に使えるようになります。手堅く出世をしていく、エリート家臣だったといいます。

信長の直属の親衛隊である「馬廻(うままわり)」として、護衛や伝令にあたりました。さらに、1567年には、馬廻のなかでも特に優秀な人が集められた「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭にもなりました。

なお、こちらも優秀なことで知られる前田利家は、「黒母衣衆」と対になる「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の筆頭でした。

才能は鉄砲に!

上記のように様々な場面で活躍した佐々成政ですが、彼が特にその才能を発揮したのは鉄砲においてでした。

鉄砲への知識・活用法などにおいては織田家のなかでもトップクラス。織田信長の鉄砲隊編成の中心となったのが成政でした。訓練を続け、集団の鉄砲の実力を磨いていき、その成果は数々の戦でも表れました。

時には主君にも諫言を

信長のよき家臣であった佐々成政ですが、彼は単に主君に従ってばかりの人物でもなかったようです。信長が浅井・朝倉軍を倒した後、酒宴で薄濃(はくだみ:頭蓋骨を金銀箔・金銀泥などで彩色)が披露されたときには、成政が信長に「人の道に外れている」と諫言したといいます。

2ページ目 家康の支援を求めて「さらさら越え」

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