どう考えても血まみれ!幕末の「江戸城無血開城」は本当はおびただしい犠牲の上に成立した!?

「無血開城」までの経緯

幕末~明治期の混乱の中で実現した「江戸城開城」といえば、勝海舟と西郷隆盛の話し合いで、一滴の血も流さず本拠地を明け渡した「無血」「平和的」解決というイメージですね。

この江戸城「無血」開城は、江戸時代末期の1868(慶応4)年3月から4月にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川家)との間で行われました。これを経て、江戸城は新政府へと引き渡されたのです。

徳川家の本拠である江戸城が、一切の抵抗なく「無血」で明け渡されたことで、一連の戊辰戦争の中でも新政府側が優勢となる大きなきっかけとなりました。

この明け渡しに至るまでの交渉過程は、小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材としても頻繁に採用されています。

しかし実際には、戦国時代のように江戸城が新政府軍によって「攻め入られる」事態を避けることができたというだけで、この明け渡しの前後には夥しい血が流れています。

実際の経緯を簡単に辿ります。まず1868(慶応4)年1月、鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍が幕府軍を破ります。

そして政府軍は、そのまま江戸城の攻め落としを考えていました。3月6日に甲府に入った政府軍は、江戸城総攻撃の実行日を3月15日と決定します。

城を攻めるとなると、江戸の町が火の海になるのは必至です。

これをストップさせたのが、総攻撃直前の3月13・14日に二度に渡って行われた、新政府軍代表の西郷隆盛と、幕府代表である勝海舟の会談交渉です。

3ページ目 その後も多くの血が流れた

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