「自分の身を犠牲にしてでも誰かを救いたい」という想いは、そのやり方の違いはあっても古くから存在する考え方の一つだと思います。
そしてそのような考えから得られる結果は悲劇的な事が多いのも事実でしょう。前編に引き続き、月岡芳年(つきおかよしとし)の名作『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』にどんな背景があったのか、ご紹介していきます。
前編の記事はこちら。浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】
銭屋五兵衛、干拓事業の失敗
銭屋五兵衛を登用し御用金の調達の後ろ盾とも言える“奥村栄実”が亡くなると、奥村と対立していた“黒羽織党”と呼ばれる一派が台頭し、五兵衛の立場は微妙なものとなっていました。
五兵衛は河北潟の干拓・開発工事を齢80手前という時に請け負うことになります。
干拓事業は五兵衛の夢であったとも言われています。新田の開発によって人々の作物の取れ高が上がれば、飢饉の続くその頃の状況にも改善をもたらすのではないかと考えたのです。
しかし河北潟は“蓮湖”とも呼ばれ、遠く白山連峰の山並みから昇る朝焼けや、 日本海に沈む夕日など景観が素晴らしく、シベリアから飛来する渡り鳥も多く見られ、植物や魚介類が豊富に獲れたので、沿岸の住民の中には漁業で生計を立てていた者もいました。
そのような事情もあり近辺住民からの激しい反対を受けて、干拓事業は思いもよらぬほど長引く事態となったのです。
やがて地域住民から“何故、銭屋五兵衛はあのような金持ちとなったのか”というような不満が広がり、やがて工事に使用した石灰が原因で、“魚が大量に死んでいるのを見た”と住民達の中で大騒ぎとなります。
しかもその死んだ魚を食べて死亡する人まで出てきました。
そのうえ“銭屋五兵衛は抜け荷をして大儲けしたらしい”との噂までが流れ、ここまで不穏な事態に及んでくるとお上も黙って見過ごすことは出来なくなります。
そして銭屋五兵衛は「湖に毒物を流した」という罪により、子の要蔵ら11名とともに投獄され、厳しい取り調べをうけることとなってしまうのです。