和服の着付けにお作法があるように、鎧兜にも装着の手順があり、かつては武士たちの基本教養とされていました。
鎧に隠れて見えない部分なら、多少ルーズであってもとりあえずごまかせます(ただし身体に密着せず、動きにくく防御にも隙ができてしまいます)。
しかし表から見える部分だと、武士としての資質を疑われてしまうでしょう。
今回は源平合戦で活躍した佐々木高綱(ささき たかつな)のエピソードを紹介。果たして彼は、どんな鎧の着方をしていたのでしょうか?
先に着けるはずの脇楯を鎧の上に……
佐々木高綱は永暦元年(1160年)、近江源氏の豪族であった佐々木秀義(ひでよし)の四男として誕生しました。
治承4年(1180年)、源頼朝(みなもとの よりとも)公が平氏政権を討つべく兵を挙げるとこれに参加。
以来、平氏や木曾義仲(きそ よしなか)との戦いで武功を立て、頼朝武士団の中核を担うのでした。
さて時は文治元年(1185年)、頼朝公が亡き父・源義朝(よしとも)の菩提を弔うべく鎌倉に勝長寿院(現存せず)を建立。
10月24日の落慶供養には高綱もスタッフとして参列、頼朝公の鎧を預かる役目を仰せつかります。
預かるとは言っても着ているため、さしづめ「生きたマネキン」あるいは「歩くハンガー」と言ったところでしょうか。
いざ有事となればいつでも頼朝公に装着していただけるための配慮ですが、御家人の中に「鎧の着方がおかしい」と指摘する者がおりました。