「本当は何をやってたのか」不明瞭な聖徳太子
今回は、後世で「聖徳太子」と呼ばれるようになる厩戸皇子(うまやとおうじ)という人物の、具体的な役職や仕事は何だったのか? というテーマです。
『日本書紀』によると、この厩戸皇子については「厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて録摂政らしむ。万機を以て悉く委ぬ」と書かれています。
これが、推古天皇(額田部皇女)が即位した西暦592年12月の翌年4月の出来事とされています。この「仍りて録摂政らしむ」の記述があったことから、厩戸はこの時にいわゆる「摂政」になったとされています。
摂政と言えば、後に平安時代の藤原氏が独占したあのポストです。ただこの解釈には現在、疑問が呈されています。
この文章、素直に読むと「政を録摂させた」と述べているだけです。録摂というのは「まとめる」「統括する」という意味ですから、摂政という役職に就いた、とは読めません。
またこの当時、574年生まれの厩戸皇子は当時数え年で20歳です。国政に関わるにはちょっと若すぎます。当時は政治に関わるには政治上の経験、人格的な成熟度が重要視されており、当時は30歳にならないとそういう意味では認められない傾向がありました。
というわけで、厩戸皇子が推古天皇の即位の直後に摂政という重要ポジションを任された、というのはちょっと怪しいのです。先述のような記述がある以上、おばの推古天皇の引き立てによって政治に関わるようになったのは間違いないのでしょうけど。
彼が確実に政治家としての手腕を発揮し始めたのは、30歳になった頃です。これも『日本書紀』に記述があり、彼は601年2月から斑鳩宮の造営を始め、32歳となる605年10月にはこの宮殿に引っ越しています。
斑鳩宮のような宮殿は、当時、王族の中でも特に有力な王位継承者と目された者だけが住むことが認められていました。厩戸はここに居住するのと同時に、財産の管理・運営を行いました。今で言えば「官邸」のようなものです。
少なくともこの時点では、厩戸の地位や役割はかなりのものだったに違いありません。
『日本書紀』の記述通りなら、20歳で政治の世界に関わるようになってから、彼は10年ほどで大出世を遂げたと考えられます。