お江戸の治安を守るため、放火魔や盗人、博徒の取り締まりに当たった火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)。
時代劇「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」のモデルとなった鬼平こと長谷川平蔵宣以(はせがわ へいぞうのぶため)のみならず、多くの者たちがこの任を務め、時に鬼よりも恐れられたと言います。
今回はそんな一人、横田大和守松房(よこた やまとのかみとしふさ)を紹介。果たしてどんな鬼ぶりだったのでしょうか。
火付盗賊改方に就任するまで
横田松房は江戸時代中期の延享元年(1744年)、徳川将軍家の使番・横田松春(としはる)の子として生まれました。
ここで歴史ファン、特に戦国ファンならピンと来るかも知れませんが、松の字を「とし」と読ませる武将に、武田二十四将の一人・横田高松(たかとし)がいます。
お察しの通り横田松房、通称源太郎(げんたろう)はその子孫で、代々「松」の字を受け継いできたのでした。
さて、源太郎は第10代将軍・徳川家治(とくがわ いえはる)、第11代・徳川家斉(いえなり)の2代に仕え、書院番士から中奥番士、江戸城西ノ丸小十人組頭、同西ノ丸目付と順調に昇進。
そして天明4年(1784年)に御手先弓頭、火付盗賊改方に就任したのですが、古来「朱に交われば赤くなる」と言うように、日頃から凶悪犯を取り締まってばかりいたせいか、自然に性格も苛烈になってしまったようです。