「明治の大岡」と通称された、司法家が明治にいます。
のちに大審院長となる玉乃世履(たまのよふみ)です。
あまり聞きなれない名前だと思いませんか?
しかしこの記事を見れば、大河ドラマ『青天を衝け』がより深く理解できます。
渋沢栄一の記録などを参考に、玉乃世履の生涯を辿りました。
気になる部分ごとにまとめてあります。短時間で知りたいところが掴めますよ。
岩国藩の尊王攘夷派の志士
文政8(1825)年、玉乃世履は周防国那珂郡で、岩国藩士・桂脩介の子として生を受けました。桂家は岩国藩では上士の家柄です。
岩国藩は長州藩の支藩です。
長州藩主・毛利家の一門・吉川家が藩主(領主)を務めていました。
形式的には徳川家の陪臣(家臣の家臣)ですから、大名ではありません。しかし幕府からは三万石の外様大名格として遇されていました。
幼い頃から世履は学問に優れ、将来が見込まれていました。
世履は岩国藩主・吉川経幹の小姓役を拝命。経幹は四歳年下と年齢が近いことから、学友としても親しい関係を築いています。
藩主の小姓は、のちの藩政における立場と深くリンクしています。世履は家柄と能力は勿論、信頼を勝ち取る人格まで備えていました。
嘉永4(1851)年、藩校・養老館の学頭である玉乃九華の養子となります。
養父の九華は、医者から儒学者に転身した、学識豊かな人物でした。事実上、岩国藩の人材育成を担う立場を担っていました。
しかし同年、九華が世を去ります。
世履は玉乃家の家督を相続。当主となりました。
同年、世履は京都への遊学の機会を与えられます。
そこから三年ほどを同地で過ごし、多くの尊王攘夷の志士たちと交流を持地ました。
世履の関わった人物は、梅田雲浜や頼三樹三郎、さらには吉田松陰といった錚々たる面々です。
岩国藩を代表する公儀人となる
世履自身は、当初は官学である朱子学を学んでいました。
しかしより実践的な陽明学に転じ、当時としてはいち早く洋学も学ぶなど柔軟な姿勢で学問に取り組んでいます。
柔軟な姿勢は、やがて岩国藩の外交にも影響を与えました。
当時の岩国藩は、宗家である長州藩と対立。決して両藩は一枚岩の関係ではありません。
そこで世履は、藩主・経幹に働きかけ、両藩の関係改善に向けて歩みを進めています。
時勢が討幕に傾くと、長州藩は新たな軍制改革を実施します。
大村益次郎の指揮のもと、長州藩内で諸隊が再編。支藩である岩国藩も同様に討幕に向けた軍制を採用しています。
その筆頭的存在が世履でした。世履は岩国藩の兵制の洋式化に取り組んでいます。
慶応2(1866)年、幕府は第二次長州征伐を決定。西国諸藩に動員令を出し、総勢十五万人以上という大軍を動かします。
まともに戦えば、長州藩や岩国藩も負けると誰もが思っていました。しかし両藩は、戦に先立ち十分な手を打っていたのです。
同年の初頭にはすでに薩長同盟が締結。長州藩は薩摩藩の協力のもと、最新鋭の銃器を揃えていました。
岩国藩では世履が農兵による北門団を結成。長州藩同様に洋式の軍隊調練を行っています。
長州征伐で世履ら北門団は縦横無尽の活躍をしていました。
北門団は山間道の戦いで井上馨に加勢。さらに海岸道に援軍を送り、長州勢の兵站線を受け持っています。
いわば戦の帰趨は世履にかかっていました。
結果、長州軍は幕府軍に大勝利を挙げています。
間もなく将軍・徳川家茂が大坂城で病没したことで、休戦協定が締結。幕府の権威は大きく失墜しました。
戦後、世履は藩内において重臣である用人役に抜擢。岩国藩を代表する立場となっていきます。