坂本龍馬は私が育てた!龍馬の姉・坂本乙女の女傑ぶりと弟への愛情エピソード

幕末志士を語る上で、欠かすことのできないキャラとして人気を集めている坂本龍馬(さかもと りょうま)。

その龍馬を語る上で、幼少期から巣立ち(脱藩)を見守り、天下へ送り出して行った姉・坂本乙女(さかもと おとめ)の存在もまた欠くべからざるものです。

今回は龍馬を維新の英雄に育て上げた乙女のエピソードを紹介したいと思います。

文武両道の女傑、龍馬の母代わりに

坂本乙女は江戸時代末期の天保3年(1832年)、土佐藩郷士の坂本直足(なおたり。八平)と坂本幸(こう)の三女として誕生しました。

本名は留(とめ)、これは当時よくあった「もう女児は留め=止めにせよ=要らない」という意味ですが、愛称の「お留」を美しく乙女と当て字。また、乙女で「とめ」と読ませることもあったそうです。

5人兄弟姉妹の4番目(男、女、女、乙女、龍馬)で上3人の兄姉とは一回りほども歳が離れており、そのためか年齢の近い龍馬(天保6・1836年生まれ)とは仲良しでした。

やがて弘化3年(1846年)に母が亡くなると龍馬の母親代わりを自任。

「立て、それでも男か!」

「乙女姉ちゃ、もう堪忍じゃき……」

乙女は父親から教わった諸般の武芸(剣術、馬術、弓術、水練など)や書道、和歌などを叩きこみ、当時は甘え癖に由来すると考えられた寝小便(よばあたれ)も直しました。

「まだまだ!」

そんな乙女は身の丈五尺八寸(約175センチ)、目方は三十貫(約112キロ)という大柄で、下手な男性よりもよほどガタイがよかったそうです。

「あげなジャジャ馬に、嫁の貰い手があるじゃろうか……」

家族が心配するほどの女傑だった乙女に縁談が来たのは安政3年(1856年)、土佐藩典医・岡上樹庵(おかのうえ じゅあん。新甫)の後妻に迎えられたのでした。

……が。どうも相性が悪かったのか、あまりの女傑ぶりがお気に召さなかったのか、樹庵の浮気や家庭内暴力などが原因で慶応3年(1867年)に離婚して実家へ帰ります。

2ページ目 龍馬の妻である「お龍(りょう)」との関係

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