忠臣か逆臣か!?武田二十四将のひとり、戦国武将・小山田信茂の人生と人柄を紹介

雲川ゆず

みなさんは、小山田信茂(おやまだ のぶしげ)という人物の名前を聞いたことがありますか?

あまり有名ではないかもしれませんが、甲斐武田氏の家臣で、武田二十四将の一人でもあるんです。

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そこで今回の記事では、そんな小山田信茂について、彼の生涯や人柄について詳しくご紹介したいと思います!

小山田信茂の生涯とは?

小山田信茂の出自についてははっきりとわかっていないところがあります。出生は天文8年や9年という説などがあります。小山田信有の次男として生まれました。

天文21年に父が亡くなった際に兄が家督を継ぎますが、その兄も永禄8年(1565年)に病死し、信茂が家督を継ぎました。武田信玄の治世下では様々な戦で活躍しました。

武田勝頼の治世下では、武田氏が織田信長、徳川家康らに攻められ、窮地に陥ります。あらゆる家臣に見限られた勝頼は、小山田信茂を頼って小山田の館に向かいますが、信茂はこれを受け入れませんでした。

この後、信茂は信長配下に加わろうとしますが、不忠であることを理由に処刑されてしまいます。『甲乱記』によれば、信茂の家族も処刑されたといいます。

小山田氏の立場「国衆」とは?

小山田氏は、武田氏の配下にありましたが同時に国衆でもありました。国衆とは、元々は室町時代の国人領主でしたが、戦国時代では権力を持つようになりました。

大名から指示があれば国衆は軍を出しましたが、そのかわりに庇護を受けていました。そのため、大名と国衆の関係は契約に近く、裏切ることも珍しいものではありませんでした。

3ページ目 小山田信茂の人柄・性格

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