日本から城が消えた理由。江戸時代に3,000あった天守城郭が僅か「12」に激減【後編】

一之瀬 陽平

日本史を語る上で欠かす事のできない建造物である「城廓」。城廓の中でも一際目を引く城の天守は、織田信長によって建造された安土城が始まりとされる。

天守を有する城廓は全盛期に3000以上存在したとされるが、令和時代も現存する天守は僅か12城のみである。

日本中を席巻した城廓はなぜ姿を消したのか。今回は、【前編】に続きその理由をご紹介する。

前編の記事はこちら

日本から城が消えた理由。江戸時代に3,000あった天守城郭が僅か「12」に激減【前編】

日本史を語る上で欠かす事のできない建造物である「城廓」。城廓の中でも一際目を引く城の天守は、織田信長によって建造された安土城が始まりとされる。天守を有する城廓は全盛期に3000以上存在したとさ…

払い下げとなった天守城郭たち

廃城令を経て存城した天守城郭だったが、軍事利用に際して天守は必要なかった。取り壊すためにも人手と費用が嵩み、扱いに困った明治政府は売り手を限定して低価格帯での払い下げを決定した。

取り壊しが濃厚となった全国の城郭だったが、一方で城郭保存を訴える有志も存在した。

取り壊しを免れた天守城郭

陸軍所属の軍人であった中村重遠は、名古屋城と姫路城の保存を政府に上申し、認められている。島根県の松江城は地元の元藩士たちのによって買い戻され保存された。滋賀県の彦根城は明治天皇の勅命により保存が決定している。

このような有志たちの行動をきっかけとして、政府は1919年(大正8年)に「史蹟名勝天然紀念物保存法」を公布。城郭の法的保護が実現する

昭和に現存した天守は20基

1929年には「国宝保存法」が施行され、上述のような有志たちの行動や法律の整備により、元号が昭和となった日本には20基の天守が残存した。

しかし、日本ではその後海外との戦火が拡大。第二次世界大戦では国内の被害も大きく、現存した20基の天守も被害を受ける。1945年には水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城の7城の天守が喪失。1949年には火災によって松前城の天守が喪失した。

現在では復元天守を除き、国宝保存法によって文化財とされた天守は全国に「12」城が現存するのみである。

2ページ目 現存する12天守

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