日本から城が消えた理由。江戸時代に3,000あった天守城郭が僅か「12」に激減【前編】

一之瀬 陽平

日本史を語る上で欠かす事のできない建造物である「城廓」。城廓の中でも一際目を引く城の天守は、織田信長によって建造された安土城が始まりとされる。

天守を有する城廓は全盛期に3000以上存在したとされるが、令和時代も現存する天守は僅か12城のみである。

日本中を席巻した城廓はなぜ姿を消したのか。今回は、その理由をご紹介する。

天守とは

天守とは、城廓の中に建造された象徴的な建物であり、権威や軍事力を誇示するために作られた建造物を指す。一部の例外を除き居住空間としての機能はなく、物置や有事の際の司令塔として利用された。

織田信長の安土城が最初の天守として知られるが、あくまでも天守を持つ城郭として認識されたという意味においての最初であり、天守らしき建造物を有した城郭は戦国以前にも存在していた。日本初の天守城郭は正確にわかっていない。

天守衰退の原因

戦国が終わり、江戸幕府が開府すると太平の世が訪れた。江戸期の初め、全国に存在した天守持ちの城郭は3000程度と考えられている。以降、天守及び城郭が激減していく主な理由は2つある。

①一国一城令(いっこくいちじょうれい)

幕府は諸大名の軍事力削減を目的として、1615年に「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」を制定。全国の大名に対し、領国内の持ち城は一大名に対して一城とする事を定めた。

全国の大名は領内に存在する不要な城を破却し、城郭は激減。1867年の城主大名(国許に城が認められている大名)は151家であり、城廓の数は200を割り込んでいた。

2ページ目 ②廃城令(はいじょうれい)

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