誰であろうと、それが敵なら殺すまで。
それが戦さの習いと言うもので、相手が強かろうと弱かろうと、倒すなり降(くだ)すなり、あるいは取り込むなりするのが武士の務め。
(最初から敵に降ろう、取り入ろうと考えるようなら、武士など辞めた方が身のためです)
とかく命のやりとりは一縷の天運が明暗を分けることも多く、少しでも天佑神助にあずかろうと信心深い者が多かったと言います。
※参考:
血と死と殺し合い…ケガレにまみれて生きる武士たちが信心深い理由とは?
しかし、たとえ天であろうと他力本願には変わりなく、あくまで自力救済の矜恃を貫く者も少なくありませんでした。
そこで今回は、武士道のバイブルとして知られる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、鍋島武士の心意気を紹介したいと思います。
息子の神頼みに喝!
今は昔、佐賀藩鍋島(なべしま)家の家老・鍋島安芸守茂賢(あきのかみ しげまさ)の元へ、息子の鍋島志摩守茂里(しまのかみ しげさと)から使者がやって来ました。
「……志摩は、何と?」
「は。『京都の愛宕(あたご)権現へ参詣したし』との由にございます」
「それは何ゆえか」
「は。『愛宕権現は弓矢に霊験あらたかな軍神と聞き及びますれば、武運長久を祈願する』との由に……」
そこまで聞いた途端、茂賢は激昂して使者を怒鳴りつけます。
「そんなものは無用じゃ!卑しくも鍋島家の先鋒を仰せつかる当家の者が、愛宕権現など恃みにしてお役目が果たせるものか!よいか、志摩に伝えよ。『もし愛宕権現と敵対することあらば、そんなものは真っ二つに叩っ斬って突き進め』とな!」
「ははあ……っ!」
かくして茂里の愛宕参詣は取りやめとなったのですが、茂賢の叱咤も決してただの精神論ではなく、朝鮮出兵や関ヶ原の合戦で数々の武勲を立てたからこそ、その言葉が説得力をもって響いたのでしょう。
五八 鍋島安藝殿より志摩殿へ意見の事 志摩殿より使者を以て安藝殿へ御申し候は、「京都愛宕へ參詣仕りたき」の由に候。安藝殿承り、「それは何のために候や。」と御申し候。使申し候は、「弓矢の神と候へば、御武運の爲思召し立たるゝ」の由申し候。安藝殿立腹にて、「しかと無用に候。鍋島の先手が、愛宕など賴みて成るべきや。向ふに愛宕権現立ち向はれ候はゞ、眞中二つに切り割りて、先手を勤むべくと存じ候へ。」と返答の由。
※『葉隠聞書』巻第八より