上野で長きにわたって愛され続けている老舗西洋料理店「精養軒」の創業は明治5年(1872)…今年がちょうど150周年になります。夏目漱石や森鴎外の作品にも描かれていることからも、当時から多くの人が憧れる名店でした。
慶應3年(1867)、江戸が外国人へ向けて開市されることが決まると、多くの外国人が江戸にやってくるため、彼らを受け入れるための施設を造る機運が高まってきます。そして、明治維新後、築地に外国人居留地が置かれ、近接する軍艦操練所跡地(現勝鬨橋西詰付近)に「築地ホテル館」が誕生します。我が国初のホテルがオープンすることをきっかけに、築地周辺には西洋料理を提供する店が開業するようになりますが、外国人たちをおもてなしするための店がまだ不足しているという現状でした。
国際都市としての条件が未だ整わないことに着目したのが実業家・北村重威(しげたけ)。彼は多くの外国人を受け入れるための店を開業することを決意します。そして、岩倉具視、三条実美からの援助を受け、明治5年(1872)2月26日、馬場崎門にて初代「精養軒」が開業されました。
…しかし、その当日の午後3時頃、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会津藩中屋敷・現皇居外苑)から出火。火は西北からの風に煽られると、そのまま丸の内方面を飲み込み、銀座、築地へと燃え広がりました。その後、火は午後10時頃に消し止められましたが、木造建築が多かった当時の東京において、旧武家地に設置された省庁や伯爵邸等が焼失し甚大な被害を与える結果に…
時の政治家たちの後押しを受け、満を持して産声を上げた精養軒も、開店のわずか数時間後に焼失するという、北村重威にとっていきなり試練を突き付けられるような事態となってしまいました。
…ところで、この時の重威の心情とはどのようなものだったのでしょうか?
これを推察するのに、精養軒開店の1年前に遡ることができます。明治維新後、重威は側用人として仕えていた岩倉具視に同行して東京へやってきました。岩倉の忠臣としてよく働いていた重威には、かねてから官吏になる野心を持っていたと言います。
そして、明治4年、そんな重威に官吏としてステップアップするための大チャンスが巡ってきます。