会津藩と言えば、幕末の戊辰戦争(慶応4・1868年1月~明治2・1869年5月)において朝敵とされ、薩摩・長州を中核とする新政府軍によって滅ぼされた悲劇で知られています。
激しい戦闘の末、両軍ともに多数の戦死者を出しましたが、新政府軍は会津藩士の遺体についてはその埋葬を禁じ、野ざらしのまま犬やカラスの食い荒らすに任せるという辱しめを与えたとか。
そんなことをされれば、今なお会津の人々が薩長(現:鹿児島県&山口県)に対して複雑な思いを抱いてしまうのも無理からぬところでしょう。
しかし近年、この定説を覆す史料が発見されたそうで、真相はどうだったのでしょうか。
むしろ遺体を放置したくなかった新政府軍の事情
平成28年(2016年)に発見された『戦死屍取仕末金銭入用帳(せんしかばねとりしまつきんせんにゅうようちょう)』によると、会津藩の降伏から間もない明治元年(1868年)10月3日、新政府軍は敵味方を問わず遺体の埋葬を命じています。
会津藩の降伏した9月22日から11日後のことであり、残敵掃討など占領直後の混乱を考慮すれば、そこまで不自然な日数でもありません。
それから作業を続けること2週間、10月17日には567名分の遺体を64か所の寺院や墓地へ搬入。
かかった埋葬費用は74両(現代の価値で約450万円)、人件費もきちんと出しており、384名の作業員に対して一人2朱(約7,500円)の日当を払っていますから、2週間で約4,032万円を支出した計算(※)になります。
(※)約7,500円×384名×14日間=約40,320,000円
埋葬作業はその後も続いているため、さらにコストがかかっていることになりますが、そこまでして遺体の埋葬を行ったのは、腐敗した遺体による伝染病の蔓延防止など、衛生面の理由が最も大きいものの、やはり会津の民心を無用に逆なですることも避けたかったはずです。
「じゃあ、遺体が放置されたという会津人の記録や証言は嘘だと言うのか!」