真田十勇士とは?戦国武将・真田幸村を支えた10人の凄腕家臣達【前編】

riky33r

真田幸村(さなだゆきむら, 真田 信繁)と言えば真田十勇士(さなだじゅうゆうし)というくらい有名な存在です。現在も映画、本、ゲームなどで十勇士の活躍を目にします。しかし、真田十勇士のことをよく知らない人も実は多いのではないでしょうか。十勇士の名前をすべて覚えている人も少ないでしょう。

そこで今回は、真田幸村の凄腕家臣と呼ばれる真田十勇士について解説します。

真田十勇士とは?

真田十勇士とは真田幸村を守る家臣で、同姓同名のモデルもいますがあくまでも架空の人物です。江戸時代に書かれた「真田三代記」に数名が登場し、講談で真田幸村のヒーロー像ができます。明治・大正以降に立川文庫によって定着したのが、十勇士としての始まりです。

確かに実在しない十勇士ですが、モデルとなった人物がいた十勇士もいます。個性豊かで魅力的なキャラクターが真田幸村の家臣となって活躍する様は痛快で、本当にいてほしいと思わせてくれるような存在感です。

その真田十勇士とは、猿飛佐助、三好清海入道、三好伊佐入道、穴山小助、由利鎌之介、霧隠才蔵、根津甚八、筧十蔵、海野六郎、望月六郎の10名です。

真田十勇士の人物像 猿飛佐助から由利鎌之介の5人

中には皆さんも名前を聞いたことがある真田十勇士がいるのではないでしょうか。前編では、個性の強い10人のうち5人の人物像やモデルなどを紹介します。

猿飛佐助(さるとびさすけ)

真田十勇士で一番有名なのが、猿飛佐助でしょう。モデルとして何人か説がありますが、まず一人目は実在の人物で三雲佐助賢春(みくもさすけよしはる)。守護大名の六角氏の重臣である三雲成持の甥という説です。別の説では、上月佐助(こうづきさすけ)という伊賀の下忍と言われています。モデルと言われる理由は、ともに佐助が名前に入っているためだと言われています。

猿飛佐助は甲賀流忍術を使い、戸隠の里の育ちの忍術の名人として登場します。五遁の術(木遁、火遁、水遁、金遁、土遁の5術)を使いこなし、岩から岩へ颯爽と飛び移ったり印を結んで姿を消したりする変幻自在の忍者なのです。

十勇士の筆頭のまとめ役のような存在で、霧隠才蔵とはライバル関係にあります。徳川側の内情を探りながら、石川五右衛門と忍術勝負をする場面も。最終的には、大坂夏の陣で討ち死にしたとも、生き残り真田幸村とともに薩摩に落ちたとも言われています。

三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)と三好伊佐入道(みよしいさにゅうどう)

三好清海入道と三好伊佐入道は、兄弟でともに十勇士に名を連ねています。真田とは遠い親戚で、仕官して幸村に仕えています。僧侶のような風体をした高齢で怪力の巨漢としても知られていますが、どこか愛嬌があるところが人気の秘密でしょう。大坂夏の陣では、兄弟そろって壮絶な戦いの末自害しています。

兄の清海入道は自害の際、腹を切り自分の首を刀で薙ぎ払って見せました。弟の伊佐入道は、腹を切りながら「落ちゆかば、地獄の釜を踏み破り、あほう羅刹(らせつ)のことを欠かさん」という辞世の句を残しながら自害するなど、最期まで豪快な2人でした。

清海入道のモデルは三好三人衆の一人の三好政康(みよしまさやす)。伊佐入道のモデルは三好政康の弟の三好政勝(みよしまさかつ)と言われています。法名が清海と為三(いさ)だったことから、清海入道や伊佐入道となったようです。2人の経歴は、モデルの三好政康や三好政勝以外の武将も織り交ぜられています。

3ページ目 穴山小助、由利鎌之助

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