「天下人に、俺はなる!」
戦国時代というと、誰もが吹き荒れる下克上の嵐に乗じて成り上がり、天下に号令する野心を燃やしていたかのようにイメージされがちです。
しかしそれは後世の創作で、現代と同じく立身出世に興味はなく、むしろ争いから距離をおくことを望んでいた者も少なからずいました。
今回はそんな一人、心ならずも武士となり、戦いの中に果てた戦国武将・三木国綱(みつき くにつな)のエピソードを紹介したいと思います。
飛騨の戦国大名・姉小路頼綱に仕える
三木国綱(※)は天文15年(1546年)、飛騨国(岐阜県北部)の一宮・水無神社(みなしじんじゃ。高山市)で代々宮司を務める家に生まれました。
(※)元の名前は別≒不詳ですが、ここでは便宜上「三木国綱」で統一します。
家職を継いだ国綱は、敬虔な態度で奉職したためか人々から広く慕われていたと言いますが、これに目をつけたのが戦国大名の姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)。
頼綱は、飛騨国の統一を目指した父・姉小路良頼(つぐより)の遺志を受け継ぎ、国内の諸勢力ともども、北の上杉謙信(うえすぎ けんしん)と南の織田信長(おだ のぶなが)に挟まれながら、生き残りを賭けていました。
「どうか、当家に力を貸してはくれまいか」
頼綱は人望篤い国綱に自分の妹を娶らせて飛騨国内の人心を掌握し、統一を有利に進めたい思惑があったようですが、国綱とすれば二つ返事する訳にも行きません。
「……もったいなきご縁談なれど、なにぶん急にございますれば、暫し暇(いとま)をいただけませぬか」
「うむ。よき返答を期待しておるぞ」
さて、困りました。姉小路家は遠からず上杉か織田に呑み込まれるでしょう。できれば泥船には乗らず、どの勢力が飛騨を支配しようと一定の距離感を保ちたいのが本音です。
とは言え、今の支配者は姉小路家に違いありません。
「此度の話を突っぱねれば姉小路家の心証も悪くなろうし、領民としても気心の知れた宮司が領主となってくれた方が、ありがたいというもの」
「……やむを得まい。かくなる上は微力をもって姉小路家をお支えし、民の暮らしを安んじようぞ」
こうして国綱は宮司の職を譲り(これで自分に何かあっても、神社は無関係になります)、頼綱の妹婿となって三木の名字と刑部大輔(ぎょうぶのたゆう)の官途(かんど。私称の官位)を与えられました。
三木とは頼綱らが国司の姉小路家を乗っ取る前に名乗っていたいわば旧姓。綱の字は頼綱ら兄弟に共通する通字で、兄弟としての絆をアピールしたかったのでしょう。
国の字は元の名前からとったか、あるいは飛騨国を支える柱石として期待されていたことの表れかも知れません。
「刑部よ。恃みにしておるぞ」
「ははあ」
時は天正5年(1577年)、国綱は神社からほど近い場所に山下城(高山市)を築き、姉小路領の南方守備を固めたのでした。